古文書から見る黒川の歴史 平地のくらしと山の利用

延宝検地の実施

黒川の古文書の中に、延宝7 年(1679)作成の「摂津国川辺郡黒川村検地帳」が残されています。延宝の検地は徳川幕府の手によって行われたもので、黒川以外でも畿内周辺・備中国そして陸奥国で実施されました。『川西市史』第5 巻には市域北部の各村検地帳が活字に直されて掲載されているので確認してみてください。
延宝の検地は、文禄3 年(1594)の検地が不十分だったところを改め、年貢をかける基準をしっかり調査・確認することを目指したものです。田畑や屋敷地の面積が一つ一つ実地にあたって丁寧に調べられ記帳され、最後にそれらの総計が表示されました。黒川村は田畑および屋敷地の面積18 町2 反5 畝24 歩、この分米190 石1 斗2 升1 合とされました。

写真19. 延宝の検地帳(部分)

椚木山・柴山・草山

この延宝検地においても山手米・入炭代・入木代そして藪代がそれぞれ明瞭に決められました。「山手米」については文禄の検地で米5 石だったものが米5 石9 斗8 合に改められ、椚木山・柴山・草山がそれぞれ先に掲げた写真のように明確に記載されることとなりました。
「椚木山」は2 か所。1 か所は大堂山で、ここは370 間× 300 間、面積37 町歩。山手米は1 石4 斗8 升です。もう1 か所は石打山で、453 間× 200 間、面積30 町2 反歩。山手米は1 石2 斗8 合とされました。それぞれ5人の名前が小さく記されています。この人名は椚木山の所有者か管理者であって、年貢負担者とされた者でしょう。

つぎに「柴山」。これも2 か所。南山で60町歩、この山手米2石1斗。北山で6 町歩、この山手米2 斗4 升、いずれも「村分」と記されています。「村分」とは村の共有で山年貢を負担するという意味でしょう。 最後に「草山」が4 か所記されています。1 か所目は白柏より牛岩までで34 町9 反6 畝、この山手米3 斗5 升。ただし、能勢郡稲地村から山手を出し立会い。2 か所目は大つなより天狗かたわまでで35 町4畝歩、この山手米3 斗5 升。ただし、ここも稲地村より山手を出し立会い。3 か所目は瀧谷で3 町6 反歩、この山手米3 升6 合。最後は大たう14 町4 反歩、この山手米1 斗4升4 合です。これら草山の山手米もすべて共有地であることを示す「村分」とされました。

写真20.『稲地村と山論、立会絵図』

山の利用と村のくらし

この椚木山・柴山・草山の利用は、すでに述べておいたように、遅くとも「山手米取」の記録された慶長5 年(1600)には存在していたことが推測されます。椚木山は言うまでもなく炭焼きに、柴山は肥料と薪などに、そして草山は肥料と牛飼い用です。
黒川村は、早ければ16 世紀には、あるいは遅くとも17 世紀半ばの延宝期(1673 〜 81)ごろには農業と炭焼きそして柴木売りを中心とする産業構造を形作っていたこと、そしてそうした産業構造を維持するために椚木山・柴山・草山を広大に持っていたと考えていいです。これらは、黒川村の存続になくてはならないものであり、収益も上がるものであったから領主への年貢も納めさせられたのです。
ちなみに、延宝期(1673 〜 81)におけるこれらの山の位置を地図の上に表してみました。 (18、19 ページ黒川樹木分布図参照)共有地であり隣村の入会も認めていた草山の位置と面積は、明治の初めにおいてもほとんど変化がありません。しかし、椚木山の位置は 現在の位置と比べてそうとうの移動があるようです。年貢が個人持ちであったことと関係しているのかもしれませんが、その明確な理由についてはまだよくわかりません。今後の課題というべきでありましょう。

〔注〕左記の「明治10 年(1877)の黒川薪炭山一覧」については、さらに検討しておくべきことがあるように思います。ひとつは、「薪炭林面積」の合計が、延宝検地帳に記載の合計67 町歩余(P.22 参照)とくらべ、43町歩前後も少ないこと、それから収穫高12 円5 銭余というのも、後掲「第十四区黒川村産出農産物播種反別及収穫表」(P.26 参照)で合計423 円余とされているのとくらべ余りに少ないことです。この違いはどこから生じてきたのでしょうか。実は、この文章には一件ずつ個人名が書かれていますので、ひょっとすると、炭焼き用の原木利用権を確認した割当表だったようにも思われます。その場合、表にある「収穫」とは、使用権入手の対価として村に支払った個々人の納入金だったのかもしれません。なお、この表に出てくる人名は、「村中」との記載も含め20 名です。(表記上ごく些細な間違いのある2 件を同一人物と判断しています。)

農業と自然

享保6 年(1721) の「摂州川辺郡黒川村明細帳」には、黒川村の農業が自然とどうかかわっていたかについて具体的に書き上げられています。里山を考えるにおいて農業は基本的な存在であるからここで改めて確認しておくこととします。
享保6 年(1721)の「摂州川辺郡黒川村明細帳」には、田畑肥こ やしには「野山草用い申し候」とあります。つまり、柴山と草山が耕作用の田畑の肥こ やしに不可欠であったことが述べられています。 黒川村では、田には稲を、畑では大豆・小豆・そば・なすび・いも・きびな・ だいこんをつくっていました。

写真21. 黒川の牛と農家

そしてそれらに必要な水は山の谷水(このころの呼び名は「石川」、長さ12 町、幅平均して3 間)と少しの池水を25 か所の井堰を作って取り込んでいたことも示されています。これも山の利用であると言ってよいでしょう。 黒川村ではこの年60 軒の家(人口258 人)で25 頭の牛を飼っていました。牛は農耕と物品の運搬に不可欠でしたが、その飼料としてもまた山の草を必要としたのです。なお、草山は隣接する能勢郡稲地村そして中村からの利用も、それぞれの村に年貢の一部負担をさせることで認めていました。 このように、黒川村では本業である農業でも様々な方面にわたって山を利用し、炭焼きと並ぶ村の産業を支えるものとしてそれを大事にしていたのです。 では、このような山の利用がいつごろまで続けられるのでしょうか。一つは、18 世紀後半ごろから川西市内の南部平野などでは肥料に干鰯(いわしのかすを干したもの)や屎尿など、より効果のある金肥が広く利用されるようになっていきます。そのようななか、黒川村では、天保14 年(1843)「永井飛騨守殿御預り所村方明細取調書上帳 摂州川辺郡黒川村」に書かれているように、「当村領のうち野山にて肥やし草刈取場ならびに牛飼場仕来り申し候」と記載されています。これは、黒川村では江戸時代末になっても相変わらず伝統的な山野草利用の肥料の確保が続いていたことを示しています。

江戸時代~明治以降になっても続いた山の利用

山の利用を不可欠とする村の産業構造は、基本的には江戸時代を通じて存続し、さらに明治以降も継続したと言ってもよいです。ただし、肥料についてはおそらく明治以降には金肥への変化を示したと思われますが、いま、その実態を明瞭にする記録は見つけ出せていません。いずれにしても、山とその管理は村にとって重要な意味を持ち、それに関する記録もたくさん残しました。いまこれらに関する古文書の一部を写真に写してみました。まだまだたくさん出てくるものと思われます。

写真22. 里山を物語る黒川の古文書