古文書から見る黒川の歴史 村の始まり

南北朝時代の文献に見える「黒河」

 

現在「黒川」という地名が見えるもっとも古い文献は、永和元年(1375)の「諸堂造営棟別郷村注文」です。(『川西市史』第4 巻356 〜 358 ページ)。時代は南北朝(1336 〜 92)のころ、多田院(現在の多田神社)政所は、多田院修復に宛てるために多田庄内の村々だけではなく、鎌倉幕府が棟別銭供出の義務を負わせた「加納の村々」からも棟別銭を徴収しました。これはそのときの徴収に関わる記録です。この記録の最後の所に、一、保野谷 横大路 黒河 頸崎と出て来ます。「ほのや よこおおじ くろかわ くびさき」と読むのでしょう。現在の保の谷 (吉川の小字)・横路・黒川・国崎にあたると思われます。

写真13. 川西市史

黒川村の形成事情

この永和元年(1375)「諸堂造営棟別郷村注文」からは黒川村の形成事情がある程度うかがうことができます。すなわち、この記録によれば、「黒河」ほか3 か村は、鎌倉幕府と室町幕府から源氏の祖廟として特別な保護を受けていた多田院を中心に形成された多田庄の村ではなかったこと、しかし多田庄と並ぶ加納の村として位置づけられていたということです。「黒河」ほか3 か村は、多田庄の影響を受けつつも、それからは少し距離を置いた所で自立的に形成されてきた村と考えるのがいいでしょう。
ところで、黒川の徳林寺には境内に文和4 年(1355)の年紀を持つ石造宝篋印塔が建っています(市指定文化財)。それには、直家という人物が死んだ父母の菩提を弔うためとの趣旨を彫り込んだ銘文があります。つまり、南北朝期には文字を知り、宝篋印塔を建てる有力者もこの地にいたのです。おそらく、南北朝から黒河(川)は村として成立し、一定の秩序のもとに村びとを統制する組織もできていたと考えられます。おそらく、この時期以降戦国期を通して自主的な村=共同体としての基礎を固めていくのではないでしょうか。

写真14. 徳林寺の宝篋印塔

文禄3 年(1594)の「黒川村検地帳」

黒川地区で次に残されているのが文禄3 年(1594)に作られた「黒川村検地帳」です。
豊臣政権は、全国的に支配地を伸ばし、領有することとなった土地をつぎつぎと検地していきました。 その記録である村々の「検地帳」には、土地の一筆一筆について田地・畑地・屋敷地というように地目を区分しながら、それぞれの面積・等級・分米高・請人というふうに書き上げられていきました。分米高とは基準的生産高という意味です。このときの確認は徳川時代にも引き継がれていきました。
検地は、豊臣政権や徳川政権支配下の大名の領地高確定に際してその基礎とされましたし、村々においては百姓身分の確定、年貢徴収の基礎とされました。逆に言えば、検地帳が作られることによってその村は、豊臣政権あるいは徳川政権から一つの村として認められ(村切といわれる)、「百姓」としての村びと個々の身分を確定し、同時に政権に臣従する諸大名等に領有される村ともなったのです。

写真15. 文禄の検地帳

貴重な文禄検地帳

文禄3 年(1594)の「黒川村検地帳」は、豊臣政権が行った検地に関わる記録としては、川西市域では西畦野村・出在家村・栄根村と並ぶ検地帳です。それは今回の調査で見つかったものですが、中世から近世へと移行する時期の村の様子を示す貴重な歴史的資料です。表紙には「摂津国河辺郡多田庄黒川村御検地帳」と書かれ、綴じられている紙は全部で26 丁した。検地奉行は速水甲斐守でした。

この検地帳は、延宝7 年(1679)徳川幕府によって改めて検地しなおされるまでこの地域の公的な土地台帳とされました。