古文書から見る黒川の歴史 炭焼きと黒川村

茶の湯の流行と「一庫炭」

延宝7 年(1679)の「摂津国川辺郡黒川村検地帳」には「入炭代」として「銀67 匁5分 」という銀高が表記されています。また、この数字の右横には小さな文字で「有来る通り」とも注記されています。すなわち、豊臣政権下の文禄3 年(1594)以来同じような扱いを受けていたとも述べているのです。

「入炭代」とはかつて炭が領主に義務として献納されていたことを受け、生産された炭の代わりにそれを銀で納めるという制度のことだと言われています。つまり、この村における炭の生産は領主の指示によるものであったことを示しているのではないでしょうか。 戦国時代から豊臣政権の頃にかけて茶の湯が流行し、茶室で湯を沸かすための炭が求められました。「一庫炭」(集散地が池田であったところから「池田炭」とも呼ばれる)がその中で高く評価されることとなりました。その切り口の形は菊に似ていて、香気もあり、火力も強かった。それは、江戸時代に入っても同様であり、『毛吹草』(松田重頼著、正保2 年=1645 刊行)以来、様々な書物に「池田炭」「一庫炭」をほめそやす記事が書かれつづけられることとなりました。 実は、黒川村は、一庫村と並んで「一庫炭」の有力な産地であったのです。一庫村の入炭代が銀105 匁であったのに対し、黒川村は銀67 匁5 分という数字がそれを示していました。

写真23. 菊炭

村を支えた炭焼き業

しかし、この地域の炭生産は、茶の湯のためばかりではありませんでした。それは多田の各地方における銀・銅の精錬とも深く関わっていたと考えるべきです。

多田銀銅山が盛んに掘られるようになったのは豊臣政権下でした。それは、天正年間(1573 〜 91)吹場村である下財屋敷・山下町が成立し、黄銅鉱から鉄分を除くことのできる真吹きと呼ばれる方法(山下吹きとも呼ばれる)が確立することと深く関わっていました。やがて慶長期(1596 〜 1614)には銅から銀を分離することのできる技術である南蛮吹きが伝えられ、寛文期(1661 〜 72)には一大盛期を迎えることとなりました。 こうして精錬用の火力として炭の需要も伸びたことが考えられます。銅山を近くに控えた黒川村などの村々では、火力の強い菊炭もこうした中で開発されていったのではないでしょうか。 ちなみに、延宝7 年(1679) の「永井飛騨守殿御預り所 村方明細取調書上帳」には、「当村の義は、銀銅山往古盛山の節は百姓農作業の合間に右出銅の駄賃持ちなどを仕来り候得共、当時(現在という意味)不盛山なので耕作の透間に、男は炭焼・木柴を仕込んで池田へ売り出し申し候。女衆はつぎむぎ仕り申し候」と記されています。

写真24. 村方明細取調書上帳

しかし、銅山と炭焼きとの関わりは、駄賃運びにとどまらず、銅山が盛んであった時からもっと広範囲に密接 不可分であったことを見ておくべきでしょう。

炭の生産量と生産構造

明治7 年(1874)の「産さんぶつそうかきあげひかえ物惣書上控 黒川村」では、炭の生産について、
炭2 万4000 貫かん、上炭400駄だ 、雑炭350 駄
と書かれています。
2 万4000 貫とは1 貫= 3.75kg としてkg に換算すると90,000kg すなわち90 トンとなります。これで上炭・雑炭あわせて750 駄になるというのです。1 駄とは馬とか牛とか1 頭に背負わせることのできる荷物の分量であって、辞書では1 駄= 36 貫(約135 ㎏)とされていますが、ここでは1 駄= 32 貫(120 ㎏)となっています。これを仮に当時の家数を40 軒として、そこで炭を焼いたとして一軒当たり600 貫(2250 ㎏)= 18.75 駄という数字になります。
つぎに、これよりも少し後の1870 年代半ば以降に作成された「第十四区黒川村産出表農産物播はしゅたんべつ種反別及および収穫表」を見てみましょう。そこでは次のように記載されています。
椚苗 150 本 すべて村消費。10 本につき8 銭せん、上ノ物作る本業の者10 戸
上炭  8 千貫、1 貫かんめ目につき2 銭8 厘りん、池田村に売る 42 戸
雑炭  1 万2 千貫、うち250 貫目は村消費、他へ輸出1 万1750 貫目、1 貫目につき1 銭7 厘。
池田に売る 42 戸

まず、椚木苗を育て、村内の人びとに販売する家が10 戸あったことが記されています。年数がたつと樹木としての椚木も当然寿命が尽きます。その時生産を維持するために新しい苗木は必要不可欠ですが、その苗木を販売する人が村内に10 軒いたことが示されているのです。これは、炭生産サイクルの維持がどのようになされたのかを知るうえで大事な事実と思います。 それから、この表からは炭は上炭であろうが、雑炭であろうが、村内で消費する雑炭の一部を除けば、そのほとんどが池田村に売りに出されていることが分かります。その収入は、計算すると上炭が224 円、雑炭が199 円75 銭、合せて423 円75 銭となってきます。1 戸あたりに平均すると、10 円9 銭ほどの金額です。 炭の生産が基本的に販売用であったこと、構造的に池田の炭商と深く関係していたことがここに示されているのです。

写真26. 村々約定一札

よりよき販売条件を求めて

 

文政12 年(1829)には「村々約定一札」という文書が作成されています。これは、一庫・国崎・黒川・吉川・内馬場・民田・下阿子谷・上阿子谷・槻並の各村が「上炭」「諸炭」の売り捌き商の選定について盟約を結んだもので、この文書の最後のところでは、黒川村の46 人も連署しています(女性名前も1 人あり)。おそらく関係する他の村でも同じ形式の文書を作ったのでしょう。炭の流通を支配していた池田の炭商に対抗し、少しでも有利な販売条件を確保するため、生産する村々が結束したのです。天保2 年(1831)にも同じ趣旨の文書が作成されています(「焼炭一条ニ付村中連判帳」)。黒川村で署名したのはこのときには41 人。両方の間で署名人数が異なっていますが、村のほとんどの家が炭焼きに携わり、結束していたことは間違いありません。

写真26. 村々約定一札

解明したい衰退の理由

このように、黒川では炭焼きが村を支え、村も村びともその維持に力を注いできたのでありましたが、現在大きく衰退していることは否定できません。いつごろからこの衰退がはじまったのか、その背景は何であったのか、いまのところ文献から解明する材料は得られていません。里山を維持する大きな要件がこの炭焼きにあったことを思えば、これについて今後解明する努力を怠ることはできないと思います。おそらく、近代以降とりわけ戦後における日本の産業構造の大きな変化、技術構造の変革が横たわっていることと思いますが、それとの関わりで解明することが必要なのではないでしょうか。