古文書から見る黒川の歴史 鉱山と黒川村

鉱毒とのたたかい

『川西市史』第2 巻には、天保10 年(1839)黒川村が裏谷筋にある数か所の銅山から流れ出る鉱毒を問題として大津代官所に訴えた事件が短く紹介されています。また年次不明ですが、同じく裏谷筋の緑青谷銅山の稼行計画について村びとたちが相談し合ったことが記されています(P.463)。

黒川村の人びとは、その生業において銅山と深く関わっていただけでなく、もう一方では農業や飲料に被害を及ぼす銅山稼行のマイナス面について、江戸時代以来厳しい目を持っていたことも重要な点です。
今回の古文書調査においても、写真のような図面が残されていることが判明しました。この図面には「東谷村ノ内黒川大字大土銀銅鉱採掘出願地鉱毒予防工事設計図」と書かれています。開掘出願人は岡山県の人物。また、この図面の作図については、明治33 年(1900)5 月15 日付川辺郡役所の公文書によって時期は明瞭となっています。川辺郡役所は、鉱業出願人に黒川の河川に流れ込む鉱毒によって生じる農業被害と飲用水被害を防ぐため、開掘する場所から猪名川まで延長920 間(1656m)に及ぶ長い土管を敷設すること、その他の工事を命じています。

写真27. 鉱毒予防工事図

黒川では、続いて大正2 年(1923)に大谷鉱山の開掘も条件付きで認めています。これは、途中で鉱業人が変わったためか、大正11 年(1922)にも契約を結びなおす記録を残しています。大谷鉱山は大正15 年(1926)さらに新鉱を開発するため黒川地区と契約を結んでいます。