古文書から見る黒川の歴史 黒川の古文書

里山化の始まりを推測する

黒川で江戸時代初期までに作成され、今日に残っている古文書としては、ここまでに紹介した上記2 点のほか、慶長5 年(1600)の「山手米取」と慶安元年(1648)の「毛付本帳」の2 点があります。いずれも『川西市史』が編纂された当時(1970 年〜 1980 年前後のころ)に調査されました。
慶長5 年の「山手米取」は、村びとが利用していた山からの収益に対する年貢の徴収状況を記録したものです。村の家々を代表する26 人の人々がそれぞれの高を持ち、合計4 石9 斗5 升の年貢米を差し出しています。ただしこの山手年貢は、のちに述べる延宝7 年(1679)の「検地帳」では明瞭に記載されているところの「椚木山・柴山・草山」の区別をしているわけではありません。
しかし、山からの収益があったとすれば、その中身は延宝(1673 〜 81)時のそれと大きく変わるものではないでしょう。すなわち、村の人々は、16 世紀終わり豊臣政権による検地が行われる以前から山で椚木を利用して炭焼きを行い、また柴山では燃料や田畑の肥料にする柴や草を手に入れ、牛や馬の餌 =飼料にするために草山を確保していたと考えられるのです。こうして、今日の里山黒川の歴史は、遅くとも戦国時代末期には始まっていたことが文献上推測できるようになったといっていいでしょう。

写真16. 慶長5年山手米取

歴史の記録者としての村

村の古文書はこのように過去の歴史を現代のわれわれに伝えてくれます。では、こうした記録= 古文書はどんな人の手によって書かれ、また残されたのでしょうか。 南北朝期(1336 〜 92)に村に文字を解する人がいたことは徳林寺に残る宝篋印塔の刻字から明らかです。しかし、先ほど確認したところの、「黒河」の名が最初に出てくる永えいわ和元年(1375)の「諸堂造営棟別郷村注文」は、黒川の人というよりも、明らかに多田院政所の担当者が書き上げたものでした。また、その次に紹介した文禄3 年(1594)の「摂津国河辺郡多田庄黒川村御検地帳」も、おそらくは豊臣政権の検地奉行すなわち速水甲斐守に仕えた武士のだれかが書いたものでしょう。

写真17. 慶安元年毛付本帳

これに対し、この項でここまでに紹介した慶長5 年(1600)の「山手米取」そしてこの次に紹介する慶安元年(1648)の「毛付本帳」は、いずれもその内容から見て黒川村の人が作成した文書と見なければなりません。とくに慶安元年(1648)の「毛付本帳」は、この帳の最後において文禄3 年の検地が土地の実情をきちんと反映していないことを指摘し、耕作者すべて(そのうちには吉川村の人もひとりまじっています)の人々が独自に土地を再調査し、村の石高も割り出して、以後はこの数字を基礎に年貢徴収に対応することと書かれています。

16 世紀末ごろ黒川村は、自己の意思を持つ共同体として存在性を高め、村びとは、そうした共同体としての意思を文字に記録し始めていたのです。こうして村としての黒川の文書記録は、この時期以後作り続けられ、後世に引き継がれていきました。いまに残る黒川の古文書が形成された歴史的な背景にはこの共同体の形成があったと思われます。

文字の使用と村の自立性

黒川の古文書は、村を自ら管理していこうという村の自立性の高まりとともに作成され、それに併行して全体としての村びとの文字能力も向上したのでしょう。村の人々は文字を通して村を知り、その経営方法を考察し、領主との関係も考えていったのです。黒川の古文書は、このようにまさに自立する村びとの村に関する自己認識にほかならないものです。それは、日本一の里山として評価される現在の自然とともに貴重な存在であり、地域の歴史遺産と言わなければなりません。 黒川の古文書をひもとけば、村と村びとが、どのように黒川という地域で暮らしを成り立たせてきたか、さまざまな時期に押し寄せてきた困難な出来事にどう立ち向かっていったのか、その苦闘の跡が見えるのであり、その時期、時期における村びとたちの行動を知るための素材に満ちているといえるでしょう。

写真18. 黒川の古文書