黒川の今昔 昭和30年代までの生業

この「黒川の今昔」では、黒川で幼少期を過ごされた水口元義さん(S.3 生まれ)、美濃岡進さん(S.5 生まれ)、畑重雄さん(S.11 生まれ)、北野正さん(S.11 生まれ)、今西初子さん(S.16 生まれ)、水口清さん(S.17 生まれ)、西富正隆さん(S.25 生まれ)からインタビューしてお伺いできた内容をもとに記載しています。

自然豊かな黒川の集落では、かねてより林業と農業そして近隣の鉱山での労働を主として、多くの家々が生計を立ててきました。また、茶道で用いられる高級木炭「池田炭」の産地として名高く、冬場は炭の原料となるクヌギの伐採を地域で協力し、炭焼きを行ってきたことが大きな特徴です。

四季に合わせた生業のスタイル

黒川でかつて多く見られた炭焼き農家。今も残るこの特徴的な暮らしの一年間のサイクルは、
【冬】クヌギの伐採 〜 炭焼き  【春】田植え、作付け
【夏】クヌギ林の下草刈り     【秋】田畑の作物を収穫という繰り返しだったといいます。

写真28. 当時の農家

炭焼きの主な流れ

山間部の谷間、耕作面積の少ない黒川では、農業の閑散期を利用し、山の木を炭にして商品としてきたことが大きな特徴でした。かつては山中に炭窯が数多く存在し、伐採されたクヌギは山中で炭にされ、平地まで背負って運ばれてきます。これを池田方面から仲買人が買い付けに来ていたそうです。

写真29. 妙見の森に残る炭窯跡

一連の作業は重労働で、それぞれの家庭では子どもも含め一家総出で炭焼きに精を出していました。村の共有林として存在していたクヌギ林は、毎年秋に入札で伐採の権利を決定していました。紅葉が始まる頃、9 月23 日の願祭の日にその年の伐採の権利の行き先が決定し、翌年の5 月8 日まで伐採できる期間が続きます。1950 年代半ば(昭和30 年代)頃の燃料革命により石油・ガス・電気が使用されるようになったことで炭焼き農家は徐々に減少し、池田を始めとする大阪方面へサラリーマンとして働きに出る人々も増えました。

写真30. 当時の風景

田んぼ仕事

昭和初期の黒川では牛を使った農耕も行われており、黒川の人たちが「馬喰さん」と呼んでいた牛の仲介商人を通じて成牛になるまで黒川の村で使われ、その後は肉牛となるべく再び売却されていったといいます。1950年代半ば(昭和30 年代)になると農具の機械化が導入されてきました。
また、昭和初期に妙見山への参拝者が多い頃には、この辺りで収穫された野菜の多くが「黒川の銀座(P.31 参照)」の旅館に買い取られていたそうです。

木馬

炭焼きの原材料となる山で伐採したクヌギを、人や牛などが牽引して運搬するために使われていた、「木馬」。140cm 〜 160cm ほどの大きさにもなる道具です。こういったソリのような道具は日本各地の山々で見られたそうですが、黒川では精錬するため鉱石を鉱山から運び出す際にも、この道具が使われていたそうです。(黒川在住美濃岡進さん所有)

 

鉱山労働

黒川の人々と鉱山の関係は江戸時代頃から見受けられます(P.26 参照)。農業や炭焼きと並行して、この地域では鉱業に関わる人が多かったようです。現在も黒川に暮らし、1940 年(昭和15 年)頃の戦中期、黒川の「勝星鉱山」で働いていた経験を持つ水口さんのお話からも、第二次世界大戦前から戦後まで人々が新しく鉱山を掘り、働いていた様子が伺えます。 終戦を迎えるまで鉄が重工業に大量に必要とされていたこともあり、鉱物にまつわる産業の需要が大変高かったようです。現在も黒川に残る鉱山跡には、鉄製のトロッコレールや坑道への入り口が見受けられ、1950 年代半ば(昭和30 年代)頃の燃料革命を迎える少し前までの産業施設の様子を想像することができます。

写真31. 鉱山トロッコのレール

参考:1928 年(昭和3 年)生まれ、黒川在住 水口元義さん談

1937 年(昭和12 年)前後から新たな鉱山を掘る計画が立ち上がり、そこからできた炭鉱が「勝星鉱山」でした。従業員は、鉱夫や運搬担当者、そして事務方も含め20 名弱。当時まだ十代前半の水口さんもダイナマイトを仕掛け、鉱山を掘り進めていました。水口さんの母親も、銅と他の岩盤とを選別する「選鉱」と呼ばれる仕事をされていました。ちなみに父親はふたりが働く鉱山の裏山で炭焼きをされていたとのこと。水口さん自身も、鉱山労働と同時に、炭焼き作業を手伝うため、夜中に山中の窯へ見張りにいったこともあったといいます。やはり当時の黒川ではこのように鉱山へ出稼ぎに行く家族もいる傍ら、基本的には炭焼き農家として生計を立てる家々が多かったことが伺えるエピソードです。戦後は鉱山が閉まり、水口さん自身も大阪のガス会社へ就職されました。

勝星鉱山

京都府の亀岡から兵庫県の但馬にいたるまで、北摂周辺は鉱山が多く存在するエリアです。この川西市黒川にも「勝星鉱山」という銅鉱山があり、第二次世界大戦の終わりまで稼働していました。また黒川にはもうひとつ「大谷鉱山」という鉱山もあったそうです(※京都府亀岡に存在した大谷鉱山とは別物です)。

黒川の銀座

黒川の東側には、兵庫県、大阪府、そして一部京都府にもまたがる能勢妙見山があります。山頂には日蓮宗のお堂(妙見宮)があり、山の中腹の滝では滝行をする参拝者も多かったようで、今も山全体が信仰の対象となっています。開山は鎌倉時代にまで遡るようですが、1920 年頃より立ち上がった現在の能勢電鉄と地元の有志の計画で、1925 年にケーブルカーが通じるようになると、ケーブルカーの麓は旅館などが軒を連ねるようになり、多くの参拝客で賑わいを見せるようになりました。現在も当時の面影そのままに3 階建ての立派な建物が残る旅館「長谷屋」は妙見山の参拝者が多く泊まった宿のひとつ。他には「大阪屋」「神田屋」といった宿があったそうです。長谷屋には当時の宿帳なども大切に保管されており、各地から妙見信仰の講として団体客や、芸者陣の訪れた記録を確認することができます。
特に兵庫や大阪の商売人たちが、商売の成功を祈願するために訪れた大正・昭和初期は戦前の勢いもあり、修験道としての妙見山だけでなく、レジャーのひとつとして多くの人が訪れていたことがよくわかります。宿屋で着替えて、団体で滝に打たれにいく、といったこともよくあったそうです。自営業・商売人は日頃からお金の循環をよくするために縁起物を好むこともあり、そういった人々がこの地を訪れていたことが、記録や当時を知る方のお話の各所に見受けられます。

妙見信仰・講

五穀豊穣、商売人、芸人や婦女の信仰対象である妙見大菩薩。妙見信仰を持つ信仰者たちは「講」を成してこの地を訪れました。戦国時代より、日本にはさまざまな民間の信仰をもとにした集団・結社があり、それらは広く「講」と呼ばれています。

写真32. 滝谷駅(現 黒川駅)前

写真33. 滝谷駅前にあった旅館「長谷屋」