黒川の今昔 語り継ぐ黒川

生活になくてはならない資源として里山を使い、多くの人が炭焼き農家として暮らしていた時代を知る人々に当時の様子を伺うなかで出てきたエピソードをいくつかのトピックにまとめました。

昭和前半の黒川の様子、どんな記憶がありますか?

この地に最も人が訪れた1930 年代半ば(昭和10年代)。黒川銀座(P.31 参照)の旅館には芸者も多くぼたん鍋などが出され、妙見山の参拝客が白装束でケーブルカーに列を成していた様子は多くの人の記憶に残っています。一方、日常生活をみると、水道が黒川で完備されたのは平成に入ってからで、地域の人々は井戸水も併用する形で暮らしてきました。山からの水も豊富な黒川では日常で使う水は井戸で足りたそうで、昭和初期からの里山暮らしで培われた生活の基盤が長きにわたり活用されてきた様子が伺えます。

 

燃料革命の前と後で変わったことは?

1950 年代半ば(昭和30 年代)以降になってくると、産業界のみならず一般家庭で使われるエネルギーもそれまでの薪炭から、石油、ガス、電気へと徐々に変化し始めました。家族で継いでいく炭焼き仕事がなくなったため、黒川でも大阪の池田方面などへ働きに出る人がぐっと増えたそうです。

 

農業はどのように行われていましたか?

黒川は山間の集落。谷で構成されている土地でもあり実は田んぼは少なめで耕地整理はなされていなかったようですが、それでも人々は炭焼きや鉱山での仕事と並行して稲作や畑仕事を営んできました。黒川公民館の裏手界隈には、段々畑の姿が現在も残っています。農具の機械化が普及し始める以前には各家庭では牛を飼い、村には牛の餌となる草場もあったようです。また、乳牛がいたという話もあり、黒川から近隣の山下の集積所まで持って行っていたとのこと。但馬牛を肥やし、東谷小学校で行われる品評会へ出していた人もいたそうです。

写真40.あぜ道に咲き並ぶヒガンバナ

 

鉱山はどのように使われていたのですか?

川西市や猪名川町の一帯には、50 か所ほどの旧抗跡があります。黒川の周辺は超丹波帯という大変硬い岩盤で成り立っており、黒川付近には5 つの鉱山があったと言われています。なかでも大谷鉱山や勝星鉱山などでは、鉱石の採取が昭和初期頃まで特に盛んに行われていたようです。鉱脈次第で縦穴を掘ったり横穴を掘ったりと、とても重労働だったそうです。現在は立ち入り禁止となっているものの鉱山とトロッコでの坑道跡が残り、当時に採掘された鉱石や軽石がまだ入り口付近にも見受けられます。

写真41.鉱山跡近くに残るトロッコのレール

 

学校はどこに通っていたの?

この地区で唯一の学校、黒川小学校(P.42 参照)に地域のほとんどの子どもたちが通っていました。戦時中は憲兵や訓練兵がグラウンドでキャッチボールをする姿も見られたという話もあります。黒川小学校を卒業した児童の多くは黒川の隣の地区である東谷中学校へ進学しました。

 

現在の「妙見の森ケーブル」が開通したのはいつ頃?

1925 年(大正14 年)開通。戦時中の1944 年(昭和19 年)に廃止となった後、1960 年(昭和35年)に復活しました。廃止から復活までの間、戦争に使う予定だった線路が積まれていた記憶も人々の中に残っています。

 

昔の炭焼きはどうやって行われていたの?

1950 年代半ば(昭和30 年代)頃までは黒川に30 軒ほどの炭焼き農家があり、どこの家庭も冬の農業閑散期になると一家総出で山で炭焼きをしていたそうです。今も炭焼き農家として残る今西家(P.40 参照)では、炭出しという焼いた炭を窯から出す日には子どもたちも学校を休み手伝った、というお話も。9 月にはその年にクヌギを切り出す山の入札があり、翌年5 月の終わり頃まで炭焼きが続きました。かつては山中に窯があり、そこをご近所助け合いの精神のもと共同で使っている場合も多くあったようで、地域の繋がりの深さとも関係していたそうです。

写真42.クヌギ林近くにある炭窯跡