西谷の歴史 西谷の発展

荘園とは

荘園は、朝廷が奈良時代に律令制下で農地増加を図るために制定した墾田永年私財法(743 年)により始まりました。それまでは、公地公民制度のもと、土地と人はすべて朝廷(国・天皇)のものでした。墾田永年私財法により、自ら耕し、開墾した土地に国家が永続的な私有を認め、有力者による大規模な墾田が行われ、荘園制として定着していきました。

多田荘園

安和元年(968)に神託を受けて、一族郎党を率い河辺郡の多田盆地に移住した源満仲は、鉱山の開発を進め、天禄元年(970)に多田院を創建し、武士団攝津源氏の基礎を固めました。長徳3 年(997)86 歳で死した、満仲の廟は多田院と同一視され、神仏混合思想のもとで、朝廷・武家の篤い崇敬を受けました。仁平3 年(1153)に摂関家領として初見する多田荘は、攝津源氏の棟梁から11 世紀頃に寄進されたとみられ、河辺郡北部をほぼ版図とする広大な荘園となりました。中世を通して多田銀銅山は重要な経済基盤とみなされ、その支配圏は、宝塚市域北部の西谷にも及びました。

多田神社

西谷と多田荘

 多田荘は現在の川西市の多田盆地、多田神社(map.D4)周辺を中心部分としていましたが、猪名川町のほぼ全域、宝塚市西谷、さらに西側の三田市の一部にも広がっていた広大な荘園でした。
おそくとも平安時代後期には、西谷の佐曽利村(map.B2)が、多田荘の一部となっていました。
荘園制が発達するにつれて、農業のうえでは集約的な農業が方向づけられました。鎌倉時代に入ると、農業の集約化はいっそう進展し、わが国の農業の大きな特色である水田での米麦の二毛作がはじまりました。
一方小規模新田の開発も盛んに行われました。波豆・西長谷・玉瀬・大原野でも新田開発が行われていた形跡がうかがえます。新田の開発は、谷川にそった山間の小さな棚田を一枚一枚拓いてゆく農民の努力によって行われたものでした。多田荘の年貢増加になることから多田院などが新田開発を奨励したものではありましたが、農民にとっても、生活の安定と向上のための開発であったと思われます。

荘園の分布『宝塚市史』

村の発達

貞治2年( 1363)から多田院では大規模な金堂屋根の葺替工事を行っています。金堂の上葺工事は応安元年(1368)までに完成し、同年4月、完成供養が行われました。また、永和元年(1375)には法華堂・常行堂・地蔵堂などの修造が完成し、供養が行われました。応安元年と永和元年の両度とも、供養の費用は多田荘はじめ周辺諸荘に棟別銭を課して徴収されました。各村々の棟数と棟別銭を書き上げた史料が、応安元年の「多田荘等棟別銭村別注文」です。この史料には佐曽利、玉瀬、西長谷・波豆・大原野・切畑が所領としてつらなり、うち玉瀬・大原野では百姓が逃散(領主への抵抗手段として、他領に逃亡すること)中でした。中世の村は、室町期ごろには「惣村」と呼ばれるもので、血縁や地縁から地域の集団体制が生まれ、近畿を中心として各地に広がっていきます。近世になると、幕藩体制のもと村請制度などに受け継がれ、名主や庄屋を中心として年貢を納める石高による納税体制に変化していきます。これらの村々は檀家制度などで、一層、地域社会に拘束されるような形態に変貌していきます。

応安元年の「多田荘等棟別銭村別注文」『宝塚市史』

多田源氏と波豆八幡神社

波豆八幡神社

千刈水源池の北岸に位置する誉田別尊 ( 応神天皇) を祭神とする波豆八幡神社(map.A3)は、多田院を創建した源満仲の弟・源満政が創建したとされています。満政は官職を退いたあと、波豆の地に隠棲していました。あるとき一人の童子が宝珠を持って現れ「この宝珠は護国の珠なり、請う以て垂迹の印と為せ、朕はこれ八幡麿 ( 応神天皇) なり」と告げられました。
満政はこの地に宮社を築き、満政自らご神影を彫刻し、社にお祀りしたとの伝承があります。
現在の本殿は応永10 年(1403) に建てられたもので国の重要文化財に指定されています。水源池に面して立つ石鳥居は応永32 年(1425) のもので、兵庫県の有形文化財に指定されており、三田市の酒垂神社にも同材、同形式のものがあります。

また、波豆八幡神社の対岸には普明寺(map.A3)があり、源満仲にまつわる龍馬神の雨乞い伝説が伝わるお寺です。墓地に残る石造の宝ほうきょういんとう篋印塔や笠かさとうば塔婆のほか、持国天など四天王を描いた木製の厨子扉絵等が県や市の指定文化財になっています。

石造美術と波豆

中世には、民衆の祖霊崇拝・父母供養などの厚い神仏信仰に支えられて、多様な文化が生み出されました。当初は加工しやすい木材や金属で作られていた品が、石工たちの手により、恒久的に残るものとしてさまざまな形態の石造美術がつくりだされました。西谷は中世石造美術品の宝庫で、今日に中世の村の雰囲気を伝えてくれます。
特に波豆地区には西谷の中でも中世石造美術品が集中しています。西谷の波豆地区を中心とした石造美術の材料には地元の石英粗面岩(波豆石)がもちいられており、波豆八幡神社の前に拡がる神戸市千刈水源池の中にかつての石切り場跡が確認されています。花崗岩(御影石)を用いた石造美術は県内のほぼ全域で見られますが、西谷には花崗岩(御影石)を用いた石造美術が見られないことは他の地域とは異なる特色です。波豆の石造美術の制作は1290 年から1570 年頃までの約280 年間といわれています。

現在は、波豆八幡神社の境内の⻄端に石造美術品の一群があり、これらは境内東側の斜面にあった金福寺に立っていたものですが、千刈水源池を造るときに水没することからここに移されました。代表的なものは、全国で2 番目の大きさで高さ約4 メートルの板碑で、五輪塔・宝篋印塔とともに兵庫県指定の文化財になっています。また、三田市高平地区にも波豆石を用いた中世の石造美術があります。文化的に共通の地域圏を形作っていたものと考えられます。


波豆の石切り場跡『宝塚市史』


波豆八幡神社の嘉暦三年三尊種子板碑

堂坂遺跡

昭和46 年(1971)11 月市立西谷中学校の運動場拡張工事に際し西側道路を付け替える工事を行っていたところ畦道の下で埋蔵された古銭入りの壺が発見されました。堂坂遺跡(map.B3)の所在する畦下の土層は盛り土を掘り込むと耕土があらわれ、さらにその下に床土がありそれを掘り込んで幅約1 m、長さ約3 m、床土から約80 cmの深さで土壙をつくっていました。壺は南東に添って北西面にほぼ一列に7 個置かれていました。
7 つの壺はいずれも古丹波の壺で、壺の形態から、壺が作られた年代は室町中期以降と考えられています。壺の中には銅銭がギッシリと詰まっており、その後の整理によって約19 万5 千枚が確認されています。埋蔵されていた銭貨により、室町時代中後期から戦国時代に埋蔵されたと推測されています。では、誰がどのような目的で大量の銭貨を埋蔵したのでしょうか。埋められていた場所の地名は堂坂といわれ、付近一帯が古く宝山寺の境内であったと伝えられています。これらの銭貨は信者より宝山寺に寄贈もしくは祠堂銭(お寺が農民等にお金を貸して利子を取ること、現在の銀行のような役割をしていた)を、戦乱による盗難や紛失などをおそれて埋蔵したと考えることができます。

堂坂の古銭出土地点『宝塚市史』

そして何より、7 つの壺いっぱいの貨幣は、中世後期の西谷で貨幣経済が盛行していたことを物語っているといえます。これらの銭貨は実際に大原野の村々で通用していたものであり、農民たちは生産物を市場で売却し貨幣を入手し、農具をはじめとした生活諸物資をその貨幣で購入しました。また、段銭や棟別銭を納入し、年貢や公事なども貨幣で納入することがあったはずです。より有利に貨幣を入手するため、米や麦のほかにも商品作物などの生産がおこなわれ、また炭の生産などもおこなわれていたかもしれません。貨幣経済の浸透は、生産の発達と村の発展において不可欠なことでした。