西谷の歴史 近世の西谷

西谷の村々と新田開発

江戸時代初期の慶長10 年(1605)の「国絵図」によれば、西谷の村はサソリ(佐曽利)・長谷・大原野・はつ(波豆)・堺野(境野)・玉瀬・畑(切畑)が記載されています。うち佐曽利( さそり) は3 つの集落に分かれていました。
切畑は正保年間(1644 〜 48)までに南切畑・北切畑に分離、佐曽利は寛文年間までに上佐曽利・下佐曽利に分離、近世の村は9 カ村になりました。
中世末から近世前期の新田開発は、長谷村の芝辻新田(map.C3)は正保年間( 1644〜48)以前に開発され、上佐曽利村の枝郷・香合新田は寛永18 年(1641)に検地を受けました。新田村ほどに至らないまでも、各村で新田開発が進められ、幕府領を対象にした延宝5 年(1677)から同7年(1679)にかけた延宝検地では、正保郷帳の石高に比べ、それぞれ長谷23%、大原野33%、境野58%石高が増加しています。

慶長10 年(1605)攝津国絵図の西谷『宝塚市史』

西谷を支配した領主

 戦国時代末期、西谷には佐曽利城に佐曽利氏がいましたが、織田信長の家臣・荒木村重や中川清秀の配下になり、江戸期には中川氏の国替えにより豊後竹田へ移封されました。信長の後を継いだ豊臣秀吉・秀頼の時代は、豊臣家の直轄領があったと思われ、西谷の佐曽利・長谷・大原野・境野に片桐且元の領地があったことが知られています。
大坂の陣で豊臣家が滅ぶと、西谷はいったん幕府領になった後、寛永4 年(1627)麻田藩領が誕生しました。しかし、多田銀銅山が活況を呈したため寛文2 年(1662)、銀山周辺の村々73 カ村を幕府直轄領とし鉱山経営を幕府が握ったほか、鉱山への炭・薪・米などを送る村々を確保しました。こうして寛文2 年、西谷では波豆村を除き幕府領として近世の所領貞享3 年配置が定着しました。

片桐且元の治水事業

慶長年間に少なくとも西谷の佐曽利村・長谷村・大原野村・境野村が片桐且元の所領であったことが知られています。
下佐曽利村の元禄3 年(1690)の「池樋帳」や元文3 年(1738)の「御普請明細帳」などをみると、ひとつひとつの溜池について、その掘削年代を、例えば「是ハ慶長元申年片桐市正(且元)様御知行所之時御普請被成候」というように記しています。また慶長元年のほかに、同3 年・12 年・19 年についてもこの村が片桐且元領であったときに溜池が掘られた、とする記述がみられます。そして当時は下佐曽利と上佐曽利とは一村として扱われていたので、下佐曽利が片桐領であったとすれば、上佐曽利もおそらく片桐領であったと考えられます。

片桐且元が西谷に残した業績は大きく、また且元は豊臣氏の重臣として秀吉の死後も秀頼を補佐し、豊臣氏を代表して徳川家康と折衝した重要人物でもありました。それだけに単に自己の所領のみではなく、秀頼の蔵入地や大阪衆の所領全般にわたって多くの事績を残しています。
且元の西谷の所領であった下佐曽利・長谷・大原野・境野の4村には、その支配した時代に多くの池が掘られ、村々の用水に大きな利便をもたらしたことが注目されます。これらの村々に延宝検地がおこなわれた延宝7 年(1679)までに掘られた池は、下佐曽利村に12(5 反5畝2歩)、長谷村に11(1 町6 反7 畝9 歩)大原野村41(5 町8 畝5 歩)、境野村9(1 町8 歩)ありました。

片桐且元の肖像画『宝塚市史』

片桐且元のときに掘られた池『宝塚市史』

そのうち且元の支配時代に、その指示で掘られた池はそれぞれ4・7・17・2 箇所に及んでいます。延宝検地帳に記す池の面積でいえば、且元の指示で掘られた池の面積が、村にある池の総面積に対して占める比率は、下佐曽利村29.1%(1 反6 畝)、長谷村90.7%(1 町5 反1 畝21 歩)、大原野村80.9%(4 町1 反1 畝2 歩)、境野村64.0%(1 町28 歩)にのぼっています。且元が領村の用水確保につくした力がいかに大きなものであったかを知ることができるでしょう。

村人の生活と山野

江戸時代において、村での生活は自給自足を前提とするものであり、山野からもたらされる自然の恵みは人々の生活とは切っても切り離せないものでした。山から収穫できる柿やクリ、松茸などは村人の食料となるほか、売買することで多少の現金を手にすることができました。そのほかにも、田畑の肥料(刈敷といって草木を田畑に敷き詰めることで地力を回復させる手法)や家畜の飼料、燃料となる薪木や炭、建築用材など、食料以外の生活必需品も近くの山から得られたものであり、山野への依存度は高かったと言えます。基本的に地域社会内での流通が主であり、山からの恵みなしには生活が成り立たなかったといっても過言ではありません。

江戸初期の山論と延宝検地

山野をめぐる争論、いわゆる山論が江戸時代初頭にかけて多発しました。当時は山の帰属や境界があいまいであり、しかも人々の山野の利用が増大し、必然的に発生した論争でした。
江戸時代初頭、村と村の間の境界は必ずしも明確ではなく、これを明確にし、また紛争の解決・境界の確定に一歩を進めたのが延宝検地でした。
延宝検地が山野境界をも対象としたことによって、これを明確にする必要が生じ、これまであいまいであった村と村との山境についての山論紛争が続発し、紛争の解決を通して山境が次第に確定されました。

境野村の延宝検地帳『宝塚市史』

長尾山の延宝検地

たいていの村では、1 ヵ村もしくは数ヵ村が共同で利用する「入会山」というものを持っていましたが、入会山を持たない村もあり、その場合には入会山を持っている村とのあいだで、利用料や立ち入ることのできる範囲を定めた取り決めを結ぶことで、山への立ち入りが認められました。近世の村社会ではお互いが山野の用益を融通し合うことで村の成り立ちを補完すると同時に、取り決めを遵守することで地域の資源を保全・活用していたといえます。
長尾山(map.C4.5)は、東はあご坂・藤の森を限り、西は武庫川を限る東西3 里余、南は中山巡礼道、北は南切畑村の村限を限る南北2 里22 丁余の山で、切畑村を山親とし、豊島郡2 カ村、川辺郡53 カ村、武庫郡7 カ村の計62 カ村を山子とする入会山でした。

58 カ村立会長尾山奥山・口山の図『宝塚市史』

この入会山はさらに口山(内山)と奥山に分けられ、口山は長尾山の麓の13 カ村が利用し、その奥が62 カ村の惣山子が利用する奥山といわれる場所でした。延宝6 年(1678)、長尾山は検地を受け、これを機に、入会村々から徴収して領主(幕府)に納める山手銀が130 匁から260 匁に増額されることになったため、利用度等を考慮し山子から脱退する村があり、山子の数は58カ村になりました。

近世のくらしと産業

 西谷の村々の様子を概観するのに「村明細帳」が利用できます。村の産業は、まず稲作中心の農業です。江戸時代中期には綿作など商品作物も生産が行われ、稲作についても多品種の稲が栽培されています。寛政11 年(1799)の下佐曽利村明細帳には、大こく・京白・巡礼ぼ・関東・亀山・どろかぼ・おの川・西国・ふり出し等の品種の稲が植えられ、同年、長谷村の明細帳には、白川・河内わせ・田島坊・松坂・大路坊・永代坊・まんはい・白福・福山・順礼坊・小野川・も白という品種が記録されています。
農業の余業では、下佐曽利村の天保13 年(1842)の「村方小前百姓余業書上帳」によると、当時の下佐曽利村の人口は231 人、48 軒(人口・軒数は天保14 年)。このうち、木挽き9 人、鍛冶屋1 人、わら屋根葺き1 人・大工3 人、綿打ち1 人、黒鍬(土木作業)1 人、桶屋1 人、薬種商売4 人、薬種ならびに質屋1 人、焼酎商売1 人、小間物屋2 人、塩物肴商売1 人、酒造出稼ぎ1 人、と計27 人の名前が書上げられ、軒数にして半数以上が農業以外の余業を持っていたことがわかります。

教育

江戸時代の西谷の人々はどのような教育をうけていたのでしょうか。文部省が明治初年に調査した「日本教育史資料」によれば、寺小屋としては、西谷では大原野村の阿弥陀寺(map.B3)の荘誉が慶応元年(1865)に開業し、読書などを教え、切畑村の医師元村左中は安政3 年(1856)に開業し、読書などを教えたとあります。教師の荘誉は、明治6 年(1873)大原野村と境野村が合同で建設した帰来小学校(西谷小学校の前身となる小学校)の教師僧藤崎壮誉と思われ、このような江戸時代の寺小屋教育は近代教育へとつながっていきます。

農民運動と社会の行き詰まり

江戸時代の社会は自作農を基本とした農業国家で、近世前期は新田開発が積極的におこなわれ、また農法の改良、肥料の普及、灌漑施設の充実などで生産力も向上していきました。しかし、新田開発可能な野山の縮小や乱開発による水害の多発などで、17 世紀末から18 世紀にはいると新田の伸びは鈍り、一方で凶作や年貢の増徴策なども重なり、貧富の差は拡大していきました。

下佐曽利村村方騒動和談一礼 文化9 年『宝塚市史』

天明3 年(1783)の大凶作の後、同4 年宝塚市南部の小浜や米谷などで打ちこわし騒動が起きました。しかしこうした非合法的な農民運動はむしろ例外で、国訴と呼ばれる広範囲で合法的な訴願運動や、村方での庄屋と農民の対立も訴訟として提訴されました。
村方騒動は、江戸中期以降に村落内部で頻発した農民運動で、村役人(村政を行う者)の年貢などの不正利用、山や用水の利用の不公正などを摘発し領主に訴えたりしました。文化8 年(1811)下佐曽利村で庄屋を相手に村方18 人が村方諸勘定や山の利用、山手米(山の利用に課された税)負担などを巡って訴訟を起こしました。最終的に文政13 年(1830)に山の所有に応じて山手米を負担することなどで決着しています。また天保年間(1830 〜 44)の大飢饉をはじめ慢性的な凶作の中で、開国による物価の上昇、海防費の増大、長州戦争への動員等の臨時賦課などにより、長く続いた幕府体制は行き詰まり、世直しの機運が盛り上がる中、元治元年(1864)には、上佐曽利村では年貢未納を巡って小前百姓(一般農民)18 人が村役人の取り調べを願って訴訟を起こしました。村では年貢未納者が多く庄屋のなり手がなく混乱していました。