西谷の歴史 近代から現代へ

西谷村の誕生

明治維新ののち、近代国家の地方制度が確立されていきます。明治22 年には市制町村制が施行され、現在の宝塚の地域でも江戸時代の村々の合併が行われ、同22 年4 月には川辺郡の小浜村・長尾村・西谷村、武庫郡の良元村の4カ村が発足しました。西谷村は、川辺郡の10 カ村(切畑・玉瀬・境野・芝辻新田・長谷・大原野・波豆・下佐曽利・上佐曽利・香合新田)が合併して誕生しました。


明治21 年市町村制実施時の宝塚市域村々『宝塚市史』

明治の村の生活

人口

西谷の村には大きな村も小さな村もあり、明治22 年に西谷村となる12 カ村の戸数は、大原野村は190 戸で行政村のうちでも大きな村でしたが、芝辻新田・香合新田・南畑・北畑・立会新田はそれぞれ6 戸で小さく、1 村当りの平均の戸数は53.6 戸で波豆村や長谷村がほぼその規模に相当していました。

農業と余業

村の農業では、米、麦、大豆、菜種などが生産されていました。農家は農産物の生産以外に種々の仕事を余業としていました。約72%の家が農業以外の稼ぎをしており、佐曽利村では笊籬(竹で編んだ籠)をつくり、大原野村では箕を作る農家が多かったそうです。
これ以外に網や釣で川猟をするもの、あるいは許可を得て銃を持ち山猟(主に猪・鹿・鳥)をするものもいました。

 

山林原野の所有

農家は生活するうえで、肥料や薪炭あるいは家屋を建てるのに必要な材木や屋根を葺くための萱の供給源として、山林や原野を必要不可欠としていました。
山林原野は、もとは村のすべての百姓が総有していましたが、百姓が個々の所有権を主張するようになり、その結果、明治になってからそれらが各戸の所有となっていきました。
そのように分割をしたのは村の口山(深い山への入り口にあたるような山)で、奥山(山の深い所)は分割しないで村総有のままにしていることが多く、明治になってからも村の共有財産でした。また数ヵ村の共有の場合もありました。明治22 年(1889 年)に新しい町村が成立しましたが、その後も部落共有財産として旧村の共有形態が維持され、旧慣に従って利用されました。共有財産は面積としては山林原野が大きかったのですが、それだけではなく田・畑・溜池・墳墓地・宅地などもありました。


明治12 年各村の人口『宝塚市史』  
波豆村稲作概算書 明治14 年 『宝塚市史』

明治22 年西谷村各むら共有地『宝塚市史』

西谷の「たれみ」『宝塚市史』

近代化への道

阪鶴鉄道開通

阪鶴鉄道は、明治29 年(1896)、大阪から福知山を経由して舞鶴までを結ぶ鉄道として計画されました。阪鶴鉄道は既設の摂津鉄道から路線を譲り受けて、川西池田から以西の工事に取りかかり、明治30 年(1897)12 月には宝塚まで、32 年に三田まで、そして37 年には福知山まで開通しました。阪鶴鉄道の敷設工事の最難関工区間は生瀬―三田区間でした。明治40 年(1907)8 月1 日に、鉄道国有法により鉄道庁に尼ヶ崎-福知山間の営業を譲渡し、官設鉄道「福知山線」として国有化され、JR 福知山線の原型となりました。

千苅水源池

明治後期、神戸市は増大する市民の水需要に応えるため、水道事業の拡張を計画、近隣に水源を求めていきました。そして、武庫川上流千刈(map.A3.4)に水源池の建設を計画しました。明治41 年(1908)4 月から現地調査が行われ、翌42 年、水道拡張議案が神戸市会を通過、関係町村に意見を求め、これにより、千刈のある波豆の人々は、同市の計画を初めて知りました。
波豆村は組織的な反対活動を始め、神戸市の測量による田畑、農産物等、村の受けた損害を陳述しましたが、神戸市は工事に着手しました。工事は着々と進み、千刈貯水池堰堤構築工事が竣工したのは大正8 年(1919)5月1 日でした。
大正14 年(1925 年)、拡張工事施工案が可決。内容としては千刈水源の貯水池堰堤を20 尺高くし、貯水量を2 倍に増量する計画でした。この堰堤嵩上げ工事は昭和4 年(1929)4 月に開始されましたが、この嵩上げ工事によって、波豆村の移転家屋は22 戸、水没した田畑、山林、宅地等は約23 町歩でした。昭和6 年(1931)8 月、嵩上げ工事は全て終了しました。


かつての武田尾駅(map.B4)(昭和45 年)『保存版ふるさと宝塚』
神戸水道水源地千刈の堰堤
岩谷を走る西谷バス

西谷バス

西谷の人々は市街地に出るとき、三田もしくは池田へ山道を歩きましたが、阪鶴鉄道の開通後は武田尾駅へ歩くことになりました。しかし、西谷は南北に長く、駅への道のりは短くありませんでした。これを短縮するため自動車利用への要望が強くなり、道路を拡幅しました。そして、大正13 年(1924)7 月、西谷バスが西谷の交通機関として誕生しました。乗り合いバスの運行によって、西谷村の人々は阪神間にきわめて便利になりましたが、しかしまだ貨物自動車はなかったので、生産物の搬出や物品の運搬は、荷車あるいは荷牛車によらなければなりませんでした。

宝塚市へ合併

戦後の新憲法下では、自治体の行政基盤を強化し地方自治を確立することが重要な課題であり、「町村合併促進法」、「新市町村建設促進法」が施行されました。昭和20 年代から30 年代前半に町村合併が進み、市町村の数は約3 分の1 に減少しました(昭和の大合併)。宝塚市はこの動きの中で誕生しました。
当時、現在の宝塚市を構成する良元、小浜、長尾、西谷の各村々には、伊丹市や西宮市、川西町など近隣の市町との合併の動きが幾度となく起こりました。
宝塚市は昭和29 年(1954)4 月1 日、武庫郡良元村と川辺郡宝塚町が合併して発足。県下15 番目の市となりました。
翌30 年3 月10 日に長尾村が、また、3 月14 日に西谷村が編入されました。
昭和29 年(1954 年)4 月1 日の宝塚の人口は、40,581 人、面積は28.3km2 で、長尾村、西谷村が加わった翌30 年4 月1 日には、55,205 人、101.8 km2 となりました。