西谷の歴史 鉱山と西谷

多田銀銅山の繁栄

多田銀銅山(map.C3)は川辺郡猪名川町を中心に、川西市・宝塚市・大阪府豊能郡にわたる、東西・南北ともに十数キロメートルにひろがっています。このうち親鉉といわれる主要鉱脈で古い歴史をもつものは二筋あり、ひとつは川西市国崎付近の奇妙山親鉉、他のひとつは猪名川町銀山を中心とする地区の銀山親鉉で、ともにほぼ南北に走っています。
桃山時代にもっとも盛大に採掘されたのが、銀山親鉉の瓢箪間歩(間歩は鉱山の坑道こと)(map.C3)・台所間歩・千石間歩でした。瓢箪間歩は室町時代に盛山となり、天正年間(1573 〜 1591 年)豊臣秀吉の時代には銀・銅の鉑石(鉱石)をだして、大いに栄えました。これによって秀吉は、山先(はじめてその鉱脈を発見した山師)原丹波・原淡路の二代に賞として馬印の千成瓢を与えたので、この間歩を「瓢箪間歩」と呼ぶようになったといわれています。「台所間歩」も秀吉の時代に大いに栄え、そこからでる鉑石の益銀で大阪城の台所の入用をまかなったので、その名がついたとされています。「千石間歩」もまた秀吉のころ月々1000 石の運上銀を上納したので、この名がついたそうです。そして銀山経営のために、銀山町広芝に陣屋を建て、旗本の岸島伝内・川瀬八兵衛を奉行として、足軽・同心200 余人をおいて銀山口を守備したと伝えられています。

西谷の間歩

 この銀山親鉉の間歩が、安土桃山時代の多田銀銅山における中心的間歩でしたが、それから分かれた枝鉉が西谷を走り、それがまたこの時代に盛期を迎えていました。それらは、長谷村・下佐曽利村領内の千本間歩(map.B2)と南切畑村領内の紺青石をだす諸間歩です。「多田銀銅山来歴申伝略記」によれば、長谷村口千本・下佐曽利村奥千本とも「足利家ノ御時発起」とあり、千本間歩は室町時代に大繁盛し、銀・銅を多量にだしました。鉱民その他の人家は数百軒にのぼったそうです。  一方南切畑村領内には、江戸時代に紺青間歩・宮之上間歩・入木谷間歩・金精山間歩・金精山大盛間歩など38 箇所の間歩がありました。その38 箇所の間歩のうち、紺青間歩など先述した間歩は天正年間に至って紺青石を多量にだすようになりました。豊臣氏は天正14 年(1586)6 月3 日、朱印状をもってこれらの間歩を絵所の狩野山楽に与えました。そのため紺青(青色顔料)を精製する鉱民が、多数住むようになったそうです。


長谷の千本鉱山間歩跡『宝塚市史』


千本鉱山付近図『宝塚市史』

銀山の盛期

 多田銀銅山が豊臣時代をさらに上回る最盛期を迎えるのは、明暦〜寛文(1655 〜 1673)のことでした。多田銀銅山では西から銀山親鉉・奇妙山親鉉・七宝山親鉉・高山親鉉といわれる4つの主鉱脈がほぼ南北方向に走っていますが、明暦〜寛文期には、銀山親鉉では銀山町(猪名川町)の大口間歩・瓢箪間歩、奇妙山親鉉では国崎村(川西市)・民田村(猪名川町)の地区、七宝山親鉉では黒川村(川西市)・吉川村(大阪府豊能町)の地区が盛山となっていました。 なかでも大口間歩はこの時期の中心的間歩でした。この間歩は慶安・承応(1648 〜 1655)のころ大阪の米屋弥左衛門が出願し稼行(採掘)していましたが、同人が関東で犯した旧悪が露見して稼方追放となって後、万治2 年(1659)からは、銀山町の津慶吉兵衛が出願して稼行していました。

多田銀銅山代官所跡遺跡

彼が同3年2 月からさきに米屋弥左衛門が稼行していた間歩のくずれふさがったところを取り開ける普請をしたところ、大鉱(大鉱脈)を掘りあて多量の銀鉱がでるようになったと伝えられています。
この銀山町の間歩を中心に多田銀銅山全体の産出は、最盛期であった寛文期には年に銀1500 貫目、銅70 万斤(1斤は600 グラム)を越え、諸運上銀(営業税)は660 貫目に達する年もあったといわれています。銀山町は栄え、家数は3000 軒にも達したといいます。

多田銀銅山青木間歩

このように多田銀銅山が盛況におもむいたので、幕府は寛文元年(1661)10 月京都代官中村杢右衛門之重を銀山町に代官として赴任させ、そこに陣屋を建てて多田銀銅山を管轄させることにしました。そして翌2年2月15 日には、間歩のある村々を中心とする73 ヵ村を銀山付村とし、中村代官にこれらの村々も合わせ支配させることにしました。中村代官の銀山町赴任は多田銀銅山が盛山を迎え幕府にとって重要な意味をもつようになったことを示していました。

青木間歩坑道内

西谷の間歩の盛期

寛文2 年(1662)に川辺・能勢・豊島3 郡73 ヵ村が銀山付村に指定されたとき、波豆村を除いた西谷の村々が所属しました。
西谷は多田銀銅山の中心をなす地域ではありませんでしたが、やはりこの時期に、豊臣時代と同様、盛山を迎えた間歩がありました。長谷・下佐曽利両村にまたがる千本間歩と切畑の紺青間歩であり、ほかに境野村にも新たに間歩がでたそうです。
寛文元年(1661)10 月中村代官が銀山町に赴任した当時、銀山町の大口間歩も瓢箪間歩もともに請山(諸藩が鉱山経営を請け負わせた山)でした。採掘経営を山師(鉱山の経営者)にまかせ山師から運上(租税の一種)として出銅の10 分の1 を上納する方式で採掘されていました。この両間歩は年内に早くも御直山となったようです。
御直山とは、自分山・請山に対する幕府直営の公儀山を意味します。この経営方法はかならずしも一定していませんでしたが、経営主としての山師の存在を認めたまま、直営山に近い意味で採掘のための諸資材を公給し、山師にも俸米を与え、間歩の水抜き普請なども公費でおこなうものでした。千本間歩はこの大口間歩・瓢箪間歩とともに御直山になったといわれています。他の諸間歩が請山であったのに対し、とくに御直山に指定されたことは、千本間歩が重要な間歩であったことが推測されます。
つぎに「多田銀銅山来歴申伝略記」のしるすところから、西谷の間歩の記事を拾ってみます。17 世紀の記事を収載します。この文書の編著年代は幕末期であるので、かならずしも正確に史実を伝えているとはいえませんが、西谷の間歩についてつぎのように記しています。

長谷村領山内   凡十二ヶ所
是ハ足利家ノ御時発起
其後天正度・寛文度銀銅石多分出産有之候由申伝候
芝辻新田領山内  凡三ヶ間歩
是ハ元禄之頃発起、新間歩之由申伝フ
下佐曽利村領山内 凡七ヶ間歩
是ハ足利家ノ御時発起
寛文度ニモ銀・銅出産之由申伝フ
上佐曽利村領山内 凡五ヶ間歩
是ハ寛文・元禄之度銀・銅出産之由申伝フ
大原野村領山内  凡三ヶ間歩
是ハ右同断申伝フ
南北切畑村領山内 凡三十八ヶ間歩
是ハ往昔起発之次第不相知
中ニモ紺青間歩ト申者は天正度豊臣公絵所狩野山楽へ被下候間歩之由申伝へ
右天正ヨリ寛文・元禄ノ頃新間歩モ出来候由申伝候
玉瀬村領山内   凡五ヶ間歩
境野村領山内   凡弐ヶ間歩
是ハ南北切畑村領山内之枝鉉ニテ
寛文・元禄ノ頃新間歩出来候得共
鉉筋細ク出鉑少ク候
而シテ盛山と申程ノ事ハ無之由申伝候

この書に長谷村の千本間歩については豊臣氏の時代のことしか記載されていませんが、そのほか上佐曽利・下佐曽利・大原野・境野・切畑などの村々の間歩の様子の大体を知ることができます。さらに切畑村が延宝検地に小物成(江戸時代の雑税)として鍛冶炭代を納めることになったことは、銀山町・山下町にある吹屋で製錬に必要な木炭の生産が切畑村でおこなわれていたことを示しているのかもしれません。
こうして寛文期には多田銀銅山は前後に比をみない最盛期を迎えましたが、その盛期は長くは続きませんでした。延宝・天和期(1673 〜 1683)には早くも大きく産額が減じ、貞享・元禄期(1684 〜 1703)にややもち直すものの、ついに寛文期の盛山をとり戻すことはできませんでした。幕府が天和元年(1681)代官中村杢もくえもんゆきしげ右衛門之重を銀山町から引きあげさせ、京都代官に銀山の支配をゆだねる形にもどしたことは、多田銀銅山が早くも衰退したことを示していました。