西谷の民俗 里山を守りつづけた人々の暮らし

江戸時代の茅葺き民家 旧東家住宅(宝塚市立歴史民俗資料館)

里山学習の教材としての茅葺き民家

里山をつくった人びとの暮らし

昭和30(1955)年代の燃料革命によって里山は荒廃していきました。それ以前の人々の暮らし方を学ぶことで、里山がどのように活かされ維持されてきたかがわかります。そのための体験的な学習教材として「江戸時代の茅葺き民家」があります。

江戸中期の茅葺き民家

宝塚市立歴史民俗資料館(map.B2)の1つである「旧東家住宅」は、昭和49 年2 月、宝塚市大原野字小林8 番地にあった東正雄氏邸が宝塚市に寄贈され、昭和51 年に現在の宝塚市立宝塚自然の家敷地内に移築し、復元したものです。

建築年代は、棟札など確定する資料がなく、明らかではありませんが、江戸時代中期ごろのものと考えられます。北摂地区の入母屋造の三間取り妻入茅葺という造りです。中流階級の農家の代表的な建物として、昭和53 年3月17 日には兵庫県指定重要有形民俗文化財に指定され、多くの人が見学に来ています。

里山と茅葺き民家

この住宅は構造物のすべてが里山に依存していました。屋根はススキやヨシなどカヤ(茅)といわれる植物で葺ふかれたいわゆる茅葺きです。建物の基本構造物である柱や建具は全て山から切り出した木材や竹と土などを材料にしてつくられています。炊事場は土づくりのかまど、燃料は薪や柴、食料などの保存容器も土器、陶器などでした。炊事、洗濯には山水や川水が使われていました。

軒下に各種の農具が置かれている

かまど
里山から採ってきた柴や薪を使って煮炊きをした。

薪(左)と柴(右)

間取りと機能

この資料館の間取りは「ざしき」、「おいえ」、「へや」とよばれる三室からなっています。
出入口の土間の左側に「ざしき」と呼ばれる床つきのへやがあり、ざしきは10 畳で、床の間があり、仏壇が置かれています。その奥に、「おいえ」と呼ばれるところがあります。ここは板の間でしきられて、囲炉裏があり、居間として使われていました。囲炉裏を中心にして、家族が食事をしたり、世間話に花を咲かせたりして、家族の団らんのための大事な場所です。その横に、「へや」がつくられていますが、ここは、寝室であり、また、物置として使われていました。ざしきの手前には、巾1 間(約2 メートル)のひろい「えんげ」があり、その上に物置棚があります。これは珍しい作り方で、よこの「こま」とともに、雨戸を縁の外側に作ったときにできたと言われています。こうした広い縁がある家は、西谷の妻入農家にみられます。
土間は「そとにわ」と「うちにわ」に分かれており、うちにわは、炊事場になっています。

昔の生活と衣食住

この資料館には、いろいろな生活用具が展示されています。着るものは、普段の作業着として野良着があり、「もんぺ」「てっこう」「きゃはん」などが使われ、そのほとんどが自家製のものでした。また、「ぞうり」「わらぐつ」「たび」といった履き物も自給自足のものでした。下着には「ふんどし」や「腰まき」「ももひき」等があり、「てぬぐい」や「ずきん」「ふろしき」などもよく利用されました。
食事は五穀(米・麦・粟・稗・豆)が中心で、副食には「ひもの」や「塩づけ」等の漬物や乾燥食品が保存食になりました。食事をする場所も決まっており、箱膳などを用いました。また神仏にも毎日お供えを欠かしませんでした。

囲炉裏のあるおいえ(居間)

住まいは気候風土によって大きく左右されますが、この地方では、冬になると比較的寒さが厳しいので、それにあわせた作りがされています。また家相なども問題にされたようです。
むかしの人々は、夜明けとともに起き、また夜おそくまで仕事をすることもあったようで、遊ぶ時間は現在と比較にならないほど少なかったようです。楽しみはお盆と正月などの「ハレの日」ぐらいでした。特に八十八の手間をかけるといわれる「米作り」に大変な労力を要しました。